本日は忙しい所、来ていただき、誠にありがとうございます。
いやぁ、実は暇です。本当なら、パチンコへ行こうと思っていましたが、このインタビューがあることを思い出して、体をきれいに洗って、ヒゲを剃って、香水を付けて、髪をセットして来ました。はい、今日はよろしくお願いします。
まずは手始めに簡単な自己紹介をお願いします。
簡単に?はい(ボードに指差す)
(笑)
簡単でしょ。あっ、違いました?
砂田アトムという名前は、本名ですか?
砂田は本名ですが、アトムは芸名です。公的書類を出す時は、この名前は使えないです。使えないといったら、例えば、車の免許更新や病院の保険証、そして離婚届ですね。
(笑)
実名はアコムです。キャッシングローンのアコム。話はそれますが、いいですか?
あらかじめ言っておきますが、僕は真面目に話す事は無理なんです。今日のインタビュー会の一時間はまとまりのない話になってしまうと思います。
アコムの話に戻します。今まで色んな講演会や公演へ行ってきましたが、その中で信じられない経験がありました。わざわざ遠い所へ赴き、バーバリーという立派なスーツを着て、立派なステージで「第○○回ろう大会」という重みがあるテーマ、高そうな机の横にはきれいなお花が飾られて、ちゃんとお水は用意していて、もう準備万全な状態です。その時、ステージ横の垂れ幕に、ある異変に気付きました。垂れ幕にはこう書かれていました。
「講師:砂田アコム」
(笑)
いやいや、嘘じゃないです。本当にあった実話です。
このことを主催者に告げると、すごい焦りぶりで、垂れ幕をおろして、間違った箇所を紙で貼付けて、(垂れ幕を)戻して行きました。なので、みなさん、間違えないで欲しいです。私はアトムです。
聴者が手話を間違えて、「ト」を「ウ」になっている事がたまにありますが、間違えないように気を付けてください。アウムじゃなくて、アトムです。
アトムが芸名になっていますが、その理由をお聞かせください。
よく誤解されますが、鉄腕アトムはご存知ですか?アニメの鉄腕アトムです。
皆さんから、鉄腕アトムのファン?とよく聞かれますが、たしかに好きは好きだけど、そんなに好きなわけじゃないんです。むしろ、(手塚治虫の)ブラックジャックや火の鳥、ブッダ、三つ目がとおるが好きです。でも、だからといってアトムが好きだから、名前をつけたわけではないんです。
僕の生まれは愛媛です。(愛媛には)ろう学校が二つがあります。ろう学校の周りには聞こえる人の学校が四つあって、どの学校も最寄り駅が一つしかいないんですね。昔はろう者に対する差別がひどかったです。今は随分とよくなってきましたが、当時は手話を使うとからかわれたり、バカにされることが多かった時代です。
中一の時、身長164センチあって、中一としては結構大きい方でした。今は見かけなくなりましたが、当時はボンタンをはいて、短ラン(昔流行っていたヤンキースタイルで、着丈が短い学ランのこと)を着ていました。そのせいか、他校の高校生に目をつけられやすく、からかわれたリ、喧嘩売られたりされましたが、当時の自分は本当にもやしのような男でした。
僕の両親はろう者ですが、(私がいつも)喧嘩に負けていて恥ずかしいと言われていたんです。兄からも同様に言われました。当時は寄宿舎にいたのですが、あそこは刑務所並みの食事で、量が全然足りなかったため、夜中に抜け出して、内緒で料理室に行って盗み食いしたりしていました。それで、このサインネーム(泥棒)が付けられました。
話を戻しますが、中一の時、部活は三つ掛け持ちしていました。ソフトボール、陸上の砲丸、バドミントンでしたが、特に砲丸に力を入れていました。記録を延ばすために、『巨人の星』並の厳しいトレーニングをしていました。よく周りの方から、苦しそうだと言われていましたが、自分にとっては気持ち良かったです。お風呂に入ったときの快感と同じような感覚ですね。こうして筋トレにはまっていって、毎日励んだおかげで、みるみる体に筋肉が付いてきました。しまいには、県大会で連続優勝するようになって、自分に自信が付いて来たのです。喧嘩でも余裕で勝てるようになり、ケンカ上等(かかってこい)の状態でした。
自分以外のろう者がからかわれるのを見かけると、自分と同じろう者として見て見ぬふりは絶対出来なかったし、よくろう者を助けたりしていました。そのおかげか、鉄腕アトムのようだと言われるようになりましたが、当時はあまり気を留めませんでした。高校を出て、東京へ上京したのを機に、自分のサインネームを考えたとき、アトムと言われたことを思い出し、アトムと決めました。それ以来、19歳から17年間ずっと砂田アトムを使っています。
劇に目覚めたきっかけは何でしょうか?
さきほども話に出て来た父からの影響が大きいです。父は、超がつくほどろう者です。手話もすごい堪能で、よく家にろう者が遊びにきて、いつも父のパワフルな手話が見られる機会に恵まれていました。見ていて、すごくカッコいいと思いました。
例えば、今はもうない手話の言葉「明夜(みょうや)」がありますが、聴者の中でもあまり聞かないと思います。これはもう死語ですね。失われた日本語って、結構あると思いますが、同様に手話でも起きています。年配の方の手話を覚えていったのですが、今は全然通じないため、忘れてしまいましたが。。
父はいつも司会を担当していて、いつもお洒落なファッションをしていました。黒いシャツに白のネクタイ、そして髪型は七三分け!赤のジャケットに七三分けですよ。おまけに昔に流行っていたもみあげ。もうとてもかっこ良くて、いつも決めていました。舞台にもよく立っていて、パワフルな手話を見せてくれました。また、たまに劇もやっていて、私はそんな環境の中で育ったおかげか自然に劇に興味を持つようになりました。本格的に劇をやろう、全国的に知られるようになろう、と夢を持つようになったのは、中三の時です。
日本ろう者劇団に入って、何かトラブルとかありましたか?
いっぱいありましたね。特に大きなトラブルといえば、交通事故です。劇で使われる大道具や小道具を運ぶトラックがありますが、三台使って大道具や小道具を運んだんですね。最初は僕が運転したのですが、睡眠不足で運転が出来ない状態の為、助手席にいた友人に運転を代われとお願いしたんです。彼は内気で超真面目な方でした。
劇の会場に到着する寸前で彼から起こされて、駐車場の場所はどこかと聞いてきました。私は眠い目をこすりながら、駐車場を指さしたんです。本来なら電柱の外側を曲がるつもりのところが、彼は内側に曲がってしまったのです。そこにいたのは、信号待ちの人たちです。彼はその人たちと目が合った時に間違いだと気付き、後戻りしようと思いましたが、出来なかったんです。仕方なくそのまま進めちゃおうということで、信号待ちの方にどいてもらうようにお願いをしました。どいてもらった後にアクセルを踏んだ瞬間、ドンっと大きな音がしましたが、どうせ道路の脇にある緑石にでも引っかかったんだろうと、彼はなりふり構わず、アクセルを踏み続けていました。そしたら、ギギギと大きな音がしてきました。それでも何の音か分からず、ええいとそのまま進めて、何とか無事に駐車場に入れました。トラックから降りた瞬間、先程の音の正体がわかりました。何と、信号がこちら側に向かってひん曲がっていたのです。下ばっかり気が取られて、トラックの荷台が信号に当たっていることに気付きませんでした。よくよく確認すると、電柱にもヒビが入っていて、今にも倒れそうな状態でした。もちろん、すぐに警察を呼んで、友人は器物損壊罪が科せられました(笑)
すごいエピソードですね。他に何かありますか?いたずらとか。
劇の本番前の緊張をほぐすために、いたずらすることはよくありますね。ある劇で、手紙を朗読するシーンがあるのですが、実はそこに台詞が書かれていたのですね。私はずるいのは許せない性格なので、あることをしてしまったのです。スポーツ新聞でよく見かける女性の水着姿の写真がありますよね?それを手紙とすり替えてしまったのです。朗読する方がその手紙を開こうとした瞬間、フリーズしてしまったんです。頭が真っ白の状態です。あれはもう完全に終わりましたね。。。その後、(彼がもう出来ない状態になってしまったので)僕が代わりました(笑)
今、新しいDVDが販売されています。DVDを制作するにあたって、裏話をお聞かせ下さい。
撮影やディレクション、服装、メイク、ビデオ編集、パッケージの包装などすべて、私一人でやりました(ここでガッツポーズ)。本当です。私は協調性がないので、色んな人と組んで作り上げる事が苦手なんです。ひとりでスタジオへ行って、カメラをセッティングして、手話で話をして、データを家へ持ち帰り、編集し、出来上がったら、DVDのプレスを依頼して、自分でパッケージを詰めていきます。業者に頼まずに自分で全てやれば、10万円以上のお金が浮きます。そんなお金があったら、タバコやビール、パチンコに使いますよ(笑)でも、まぁ自分一人で作るのが趣味というのもありますが(笑)
DVDの内容ですが、おもに雑学について話しています。年配の方からのお話や、インターネット、本などで得た雑学を自分止まりにしておくのは、もったいない、他の方に伝えたいと強く思い、このDVDを作りました。例えば、このDVDでは話していないことなのですが、先輩から聞いた忘れられないお話があります。その先輩は何でも知ってる方で、本当にすごい方なんですよね。オーストラリアにいる動物といえば、カンガルー、コアラ、そしてウサギです。ウサギはもともと外来種で、イギリスから来たんです。広大な土地で楽しめるスポーツとして、馬に乗りウサギを狙撃して楽しむ狩猟、「ウサギ狩り」が流行していました。ウサギの繁殖力はすごいらしく、どんどん増えていきます。その数は分からないですが、三年に一度にウサギの駆除があり、トラックの荷台いっぱいウサギの死骸を乗せて運ばれるようです。ここまでの話は自分でも驚かないのですが、驚いた話があります。それはウサギの数です。ウサギを並べいくと、東京から大阪までの長さになるそうです!このような雑学を、1と2のパートに分けて、DVDに収録しています。
劇をするにあたって、心構えや注意している事はありますか?
劇をやって、10年ぐらいですが、最初の頃は要領が悪かったので、ミスしないように気を付けていました。いま、気を付けている事は2つあります。専門用語になりますが、CLです。CLは形を表すときに使いますね、ろう者がよく使います。そして、ロールシフトです。この二つは、ろう者にとっては当たり前のように身に付いています。そして、私の場合は、スーパーCL、スーパーロールシフトじゃなきゃダメなのです。ろう者と同じように手話で表すのは嫌です、ずば抜けた手話でないと嫌です。あっ、日常会話ではスーパーCLで話すことはないです。普段から、スーパーCLだと疲れて死んでしまいます(笑)
「車が走っている状態」を手話で表すときのように、よりリアリティに、かっこ良く、感動を与えられることにこだわっています。見ている方が卒倒するくらい、迫力が出るように心がけています。スーパーロールシフトに関しても絶対に妥協はしません。日常会話で使うロールシフトは平均3、4人ぐらいですが、私は10人でも100人でもやってやろうというくらいの気持ちでやっています。(スーパーCLやスーパーロールシフトは)ちょっとしたミスで水の泡になります。神経を尖らせて、丁寧に、そして全身全霊で注意して表現しています。
今まで、色々な劇をされてきたと思います。その中でもっとも好きなテーマは何でしょうか?
手前味噌で恐縮ですが、実は5カ国の中から、一人芝居として今年の7月にフランスに行くことになったんです。顔がカッコいいからでしょうか。
(笑)
選ばれたことは素直に嬉しいです。そこで三日間、公演をやるわけですが、依頼者からは、自分の得意なテーマをお願いしたいと言われてて、考えた結果「アルバム」というテーマにしようと考えています。というのは、「アルバム」のテーマは時間の調整がしやすく、10分でも1時間、3時間でも融通が利きます。私がデビューしたときも、テーマが「アルバム」でしたので、特別な思い入れがあります。当時は素人でしたから、緊張しまくって、時間が来たらすぐ帰ってしまうような人でしたから、5分間だけでした。今は、これまでの積み重ねで、一人芝居が出来るようになりました。なので、「アルバム」が一番好きですね。
今後の、6月27日に行われる劇「特攻の櫻」ですが、どんな事をやられるんですか?
それはまだ決まっていないんです。こないだの「特攻の櫻」は、最初の特別特攻隊であるメンバーである、関行男大尉のお話です。こういうのは間違いや嘘が含まれるとまずいので、きっちりと事前にリサーチするために、本を読む必要があります。ですが、私は文章を読むのが苦手ですので、漫画でイメージを把握しています。本番の時は、本人になったつもりで劇をしましたが、ついつい感情移入してしまい、自分が泣きそうになりました。
劇はノンフィクション系が好きですね。じつは今、暖めているアイデアがありまして、広島の原爆についての話はよく聞きますが、長崎の話はあまり聞きませんよね。ですので、いつかは長崎について話が出来たらいいなと考えています。
劇以外に、アート活動もなさってらっしゃいますよね。そのアートの技術はどうやって身に付いたのでしょうか?
さきほど話した劇を始めたきっかけは親父ですが、アートは母のおかげです。昔、団地に住んでいた頃に、母が出かけている間に、クレヨンで壁に落書きをしたんです。つい夢中で絵を描いていたら、母に見つかってしまいました。怒られる!と思いきや、描いた絵について色々と質問してきたんです。「あれはどういう絵?」や「こうしたら、もっとよく見えるんじゃないかな」など、色々アドバイスしてくれました。そうして、どんどん絵を描いていき、壁一面が絵だらけになりました。
そんな母は、私が小二の時、他界してしまいました。母の死が受け止められず、悲しんでいました。母に絵を見せてあげたいと日頃から、絵を描き続けたおかげで、自然に身に付いて行きました。当時は、漫画家になるのが夢で、出版社に何回も応募しましたが、どれもダメでした。僕の絵が上手すぎて理解されなかったでしょうね。
(笑)
漫画家になるという夢は諦めましたが、そのあとはタイポグラフィにはまりました。今はパソコンで簡単に作れますが、昔は手書きでした。アメリカのヒップホップ調なタイポグラフィをやり、また飽きて、今度は習字を始めました。このように色々と吸収して行き、自然と自分の中で蓄積していったのです。
東京へ上京し、今はもう亡くなってしまいましたが、泉という方に「絵の才能があるから、個展をやってみたらどうか」と勧められました。なかなか踏み出せないまま、ある日、泉さんは交通事故で亡くなってしまいました。友人の死に悲しんでいたある夜、夢の中に泉さんが現れて、個展のことを言ってきたことを機に、個展をやろうと決心したのです。個展は大変好評で、今に至ります。
今後、公演予定の劇はありますか?
6月のいつかに東京でやるかもしれないので、常にしかくをウォッチングしてください(笑)
地方の方も来られるのでしたら、ぜひツアーを作ってください。
ありがとうございました。
動画メッセージをいただきました。(01分43秒)
インタビュアー: しかく 佐山信二