サインアイオー いつでもどこでも手話を学べる

しかくタイムズで情報発信してみませんか?

あなたもしかくタイムズへ「イベント情報」や「お知らせ」を掲載してみませんか?

掲載依頼はこちらから

広告募集中

広告募集しています。詳しくはこちら

スタッフ募集中

現在、しかくのスタッフ募集中!
一緒にわいわい出来る熱い人を募集しています。

齋藤陽道HARUMICHI SAITO

※このインタビューに限らないのですが、手話から日本語に書き起こしているため、多少不自然な表現があるかもしれません。あらかじめご了承ください。


齋藤陽道さん(以下、齋藤)

佐山くん、よろしくお願いします。

インタビュアー 佐山信二(以下、佐山)

こちらこそよろしくお願いします。

齋藤さんへの拍手をお願いします。

観客

拍手

佐山

まず、インタビューの前に、手話についての説明をしたいと思います。

先ほど皆さんに拍手していただきました、この手を振る仕草ですが、なぜ手を振る拍手をするかというと、ろう者は拍手の「音」が聞こえません。なので、こうやって手をひらひらと振って拍手するわけです。

齋藤

そうですね。

佐山

それから、手話は世界共通だと思う方は手を挙げていただけますか?(観客の皆さんに向かって)

観客

(手を挙げる人がちらほら)

佐山

実は、手話は世界共通ではありません。国によって手話が異なります。

齋藤

日本の中でも、地方によって違いますよね。

佐山

そうですね。日本の中でも違います。例えばですが、関東と関西では手話が異なります。また、手話は、日本語対応手話(手指日本語・シムコムとも)と日本手話の2つに分けられます。

日本語対応手話の場合は、日本語の語順通りに手話で表すのが特徴です。

日本手話の場合は、例えばですね、『バスが来た』これを日本語の語順のまま表わすと、日本語対応手話になります。日本手話だと、目線やNMM(Non Manual Markersの略称。「非手指標識」を意味し、主に顔の表情などを指す)、CL(英語でいうとClassifier、分類するものという意味)などが組み合わさって、1つの文になるんですね。

みなさんには、このように手話の特徴を踏まえたうえで、インタビューに望んでいただきたいと思います。

佐山

まず、齋藤さん自己紹介お願いします

齋藤

この“ワタリウム美術館”にて写真展をやらせていただいている齋藤陽道と申します。

佐山

ろう者ですか?

齋藤

はい、ろう者です。佐山くんもですよね?

佐山

はい、僕もろう者です。ところで齋藤さん、今までは(対談などでは)筆談でやり取りしていたんですね。それが今回、初めて手話でお話しすることになりました。今の心境はいかがでしょうか?

齋藤

そうですね・・・。

今までは筆談などでやり取りしていましたので。あとはパソコンを使ってチャットでもやり取りしていました。聴者ともこの方法で行うことが多いです。実際、今までに手話通訳者へ依頼して、通訳を通してお話をしたことはありませんでした。もちろん、手話で(公に)お話をしたことは今までありません。

今回、初めて手話でお話をさせていただくことになったのですが、これには理由があります。確かに、佐山くんとお話をするように、手話を使えばすぐに意思疎通できますし、やろうと思えばすぐにできます。でもそれをやらなかった。

もちろん、手話通訳の存在を否定するわけではないのですが、やはり「通訳を通してお話をする」ということは、自分の「生の声」を相手に伝えることが難しくなってしまうという弊害があるんですね。どうしてもそこで「ズレ」が生じてしまう。

それだったら、自分の「生の声」を相手に伝えるためには、筆談が必要になってくると。今まで自分がしてきたこと、頑張ってきたことを相手に伝えるためには、何が最も最良なのだろうか、と考えた結果が「筆談」というコミュニケーションに至ったわけです。

筆談で対談するイベントを通して相手に「生の声」を伝えられる、というのはきちんと確証を得ています。このイベントは、ありがたいことに多くの方から好評をいただいておりました。相手に「自分」を伝えられたことに自信を持つことができて、それでは次のステップ、手話でお話をしたいな、と思いまして、この場をお借りしてお話をすることになった、ということですね。

佐山

みなさん齋藤さんの手話を見られるなんてラッキーですね(笑)

佐山

次にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?

齋藤

はい。

佐山

このワタリウム美術館で、写真展を開催されたきっかけ、または動機はどういうものでしたか?

齋藤

そうですね、2011年に“赤々舎”という出版社から、写真集『感動』を出させていただきまして、その『感動』という写真集を観て、気に入ってくださった友人から、このワタリウム美術館にて坂口恭平さんという方との筆談イベントを行った時、僕の友人が『感動』を持ってきたんです。坂口さんがそれを観て、気に入ってくださったそうでして、坂口さんから、このワタリウム美術館の館長、和多利氏に見せてくださったんです。それが写真展の開催に至るきっかけですね。

ちなみにそのきっかけを作ってくださった友人、ここにもいらしております。あの方です(笑)

佐山

みなさんご友人へ拍手お願いします(笑)

観客

拍手

齋藤

なんていうんですかね、『感動』がここワタリウムへ導いてくださったというんでしょうか。『感動』を通して、ワタリウムと出会い、いろんな方とお話をさせていただいてですね、そのあと、青山ゼロセンターという所があるんですが、これは一見、普通の家なんですよ。この家は坂口さんが見つけて建てた、という話があるのですが、実はこれは「0円で生活ができる場を考える」というコンセプトをもとにに建てたんですよ。

この展示会が終わった後もこのことは伝えていきたいな、と思っています。

佐山

お話ありがとうございました。

佐山

今まで、齋藤さんは著名な方々と筆談イベントを企画しておりました。その中で、印象に残った方や、ここのみなさんにお伝えしたかったことなどはありましたか?

齋藤

何人かいますね。初めて会談させていただいた方が谷川さんとおっしゃるのですが、・・・“詩”という手話はどうやるのですか?

佐山

“詩”という手話はこうやるんです。(詩の手話を表す)

齋藤

谷川さんは詩を書いていらっしゃる方で、次に吉本ばななさん。ばななさんは小説家で、荒井さんは障害文学について書いている方です。あと、山川冬樹さんはホーメイ歌手、坂口さんはなんて言いますか、いろんな活動をされている方ですね・・・。

(このなかから誰を選ぶのかは)難しいですね・・・(笑)

ともかく、みなさんとは筆談トークを通して感じた、というのでしょうか。いい経験をさせていただきましたね。

佐山

この展示会では、多くの写真が展示されているのですが、あの2階のところで展示されている写真を観た方はいらっしゃいますか?

みなさん見てくださったようですね。私が気になるところは、あの展示にはブラインドが掛けられているのですが、あのブラインドにはどういった意味合いが含まれているのでしょうか?

齋藤

あれ、なんだと思いますか?

佐山

そうですね、なんだろう。テーマが無音楽団って書いてありましたよね?

齋藤

はい、無音楽団といいます。

佐山

もしかして、楽譜ですか?

齋藤

よくわかりましたね。そうなんですよ

佐山

おお、あたったー!ご褒美お願いします(笑)

齋藤

このシャボン玉どうぞ(笑)

佐山

ありがとうございます(笑)

齋藤

どんなものを撮りたかったというと、サンブラインド、太陽の光を遮るもののことですね。なんていうのかな・・・、小学校、ええと僕の生い立ちから話せばいいのかな。

僕は小学校、中学校の時は、聴者の学校へ通っていたんです。その時は補聴器を使っていて、音楽の授業も受けていたんです。僕にとって音楽の授業はいやな時間だった。

音楽の授業の時は僕、ただ座っているだけでした。正直、音楽に対して恨んでいる気持ちがあります。この世から音楽なんて消えてしまえ!という憎悪さえあります。音楽の教科書に書かれている音符を見ても全然わからなくて、リコーダーの時も吹くフリをしていたんです。佐山くんも同じく、小中の時は聴者の学校へ通っていましたよね?

佐山

はい。僕もです。実は僕と齋藤さんは、同じ学校へ通っていたんです。学年は違うので、齋藤さんが先輩、僕が後輩にあたります。

齋藤

同じ学校だったよね。

佐山

はい。僕が小学6年の時、齋藤さんは中学3年でした。3つ上です。なので同じ校舎にいる、ということはなかったのですが。

齋藤

佐山くんは音楽の授業の時はどうでしたか?

佐山

僕も大嫌いでした!例えば、合唱コンクールありますよね?これも、周りの人に合わせて歌うフリをしていましたよね。

齋藤

そうですね。その時に世界から音がなくなればいいのに、という気持ちがあって。楽譜になんの音符も載ってない、真っ白な楽譜。でも、その気持ちに気付いたのは最近で、あの写真とは関係ないです(笑)意識したわけではないので。

あれはただ、なにもない真っ白なのを眺めて、真っ白な楽譜だな、と思って。ちょうど楽譜を置くための、ああ譜面台っていうんですかね。それをお借りしたのでそこへ置いて。ああ、きれいだな、と思っただけなんですよね・・・。でも、いま振り返ってみると、音に対しての恨みが基盤にあって、そのズレがあって面白いと思いました。

佐山

ありがとうございました。

齋藤

それと、もう1つ作った作品があります。「My name is mine」という作品です。

「感情」、「○○」、「限定」、4階に展示されている「世界探し」いろんなシリーズに分けて展示してあります。僕が構想していたのは・・・いえ、最初に考えていたのは、きれいにシリーズごとに、「感動」はここに並べるなど、作品ごとに分けて展示しようと考えていたんです。でも、それだとなんか違和感があって。

そこで、すべて(の作品)を混ぜて、バラバラに展示したらどうですか?ってワタリウム側にお伝えしたんですよ。そしたらあまりいい反応をいただけなくて。でも、ほら、僕はまだ名前も売れていないですし、まずは、きれいに並べて見せた方が良いとアドバイスをいただいたのですが、僕は納得することができなかったんですね・・・。

僕は写真をめちゃくちゃな配置にしたいという気持ちが強かったのですが、それはなぜだろうと考えたとき・・・4階の展示場にある「境界線」というタイトルなんですが、境界線にいつも違和感を感じるんです。僕は、いつも「境界線」に対して考える事が多いんです。

ろう者である僕と健聴者が会って、筆談するとき、やはり自分にとっても相手にとっても「生の言葉」ではないんですね。

どうやって伝えるかいつも考えてて、だからこそ目の前にある境界線をどう向かい合うのか…。例えば、今話している相手が変われば方法もまた変わるから、どう向かい合うかは、まだ自分の中では課題ですね。

僕は、自分がやりたいことが写真であり、写真が好きで、きれいな写真をとりたいのではなくて、境界線に対する気持ちが強いんです。でも、境界線はあって当たり前なんですよね。

この展覧会では写真が綺麗に並んで展示してあったり、今いるここ2階の一面の壁には、ばーっと自由に散らかっているように写真を並べたりと、境界線を意識して並べてみました。

特に、3階の展示場はそう。ろう者は見てわかると思うのですが、「My name is mine.」という作品があります。佐山くん、見てわかる?(笑)初めて見た時の気持ちを言ってみて。

佐山

(写真を見ながら)うーん・・・。

正直に言っても良いですか?なんだかナルシストさを感じましたね。自分をどうかっこよく見せるかポーズを工夫している感じがあって、僕は好きですね。

齋藤

じゃあ、右の写真はどう思う?

佐山

うーん、止まらない。とにかく流れている雰囲気がありますね。

齋藤

じゃあ、真ん中のは?

佐山

ぼやけている部分が何なのかすごく気になりますね。隠れている文字がなんて書かれてるのかもっと知りたい!って思います。

齋藤

うむ。この作品は聴者からは「全く分からない」って言うんですね(笑)。そういう方が多いので、僕はそれがうれしかったりします(笑)。

右の写真は、しゅわ、手話をしているんですね。自分の名前を手話で話しているんですね。ハビエルっていう名前の方なんですが、僕から見れば、写真の中の彼が手話っていることが分かります。まあ、見たまんまです。

左の写真は、ろう者のいる孤独な様子を表しています。僕の経験なんですけど、健聴者に囲まれていると「ゼロ」な状態になるんです。

齋藤

何にも情報が入ってこない、気持ちの波もない、怒りも悲しさもないゼロな状態。周りがぼやけている。周りがどうでもいい、じゃなくて…周りの顔が見えないんですね。

僕は、人の顔が覚えられなくて、何回も会って話してていくうちに名前と顔が一致してきます。いつもいろんな人から「お久しぶりです」って言われるたびに、「え、誰だっけ…!?」っていうパターンが多いんですね。

なぜ覚えられないのか?と考えたときに、僕は、この作品の左の写真のように周りがぼやけているように見えてて、人の顔が覚えられないんだなと気づきました。そういう気持ちで撮りました。でも、手話という共通の言葉をしている人と話していると、やっぱりその人の顔がはっきり見えます。

「手話」という言葉って、手の動きだけで話がわかると思いがちですが、実際は手の動きだけではなく、顔や体全身を使った言葉です。僕は、『空間』、空間の漢字からとった「空話(くうわ)」という名前の方がしっくりきます。

齋藤

先ほど話した境界線ですが、僕は境界線をなくそうとは思わないです。境界線はあって当たり前で、人と人の間に境界線は必要です。僕はいつも話している相手を見ないで、足元にある境界線をみて話しているんですね。その人ではなく、足元にある境界線と話している気持ちがあるんです。相手の目をしっかりみて話すことを、僕は忘れていたんだなあと・・・。

佐山

なるほど。やはり、斎藤さんのそういった気持ちや背景を知っている、知らないのとでは作品の見方が変わってきますよね。皆さんも、斎藤さんの話を思い出しながら作品を見てみてください。

齋藤

実は、僕、こうして作品について手話でいろいろ話したの初めてなんです。これまでは筆談で対談してきましたが、筆談だとやはり日本語など細かいところに気遣いながら筆談するんですね。自分の考えを文字にするのは時間がかかるし、来てくださっているお客様もいるので待たせないように、短い時間の中で頭をフル回転させるので、すっごく疲れます。うまくまとまらず、言いたいことも全部は言い切れないんです。

でも、今日は手話で話してみて、自分でもびっくりするくらい「こんなに話したいことあったんだ!」と(笑)。

佐山

そう言ってくださり、大変光栄です。

初めて来た時と2回目に来た時とでは、写真の配置が変わっていて「あれ?」と思ったんですけど、先ほどお話しを伺って納得しました。きれいに並べて飾るのではなく、自由奔放に並べてあるのも素晴らしいと思いました。

齋藤

そうですね。写真展って、1枚1枚きれいに並べていることが多いんですよね。僕は、それがあんまり面白くないんです。それがダメじゃないんだけど、写真が生き生きしていたり、生っぽく、自由に動くものであったら良いなと思っています。

4階にあるプロジェクターを使った展示では、写真をランダムに流しています。結構、その日、その日によって写真の配置をランダムに変化させています。でも、不思議なのは、配置を変えてもつながっているんですよね。何故つながるのかなと考えた時、僕が写真を撮るときのテーマがぶれていないからなんだろうなぁと。その気持ちを掘り下げていくと、まなざしの声。まなざしの声、手話ではどう表すのか難しいですね・・・。

佐山

そうですね。例えば、ある英文を日本語に翻訳する時、英語を使う人にとっても、日本語を使う人にとっても、誰もが納得できる内容にするように、視覚言語である手話を使う人から見れば、音声言語である「声」という言葉を使うのは違和感を感じますよね。日本語としては、「声」だけど、手話ではどう表すんでしょうね。見つめ合う・・・?

齋藤

難しいね。

(考え中)

見られる+声かけられる、という手話を同時にかな?

齋藤

見られて、視線が声代わりとなり、それに気づき、それを撮る、のが僕ですね。「My name is mine.」以外の作品は、ほとんどが手話を言語として持たない人たちなんですよね。

音声言語の人と会ってコミュニケーションをとろうと筆談していると、時間もかかってシャッターチャンスを逃してしまうんです。逆にいえば、自分の中にあるもどかしさは相手にもきっとある。相手によっては、「え、君、聞こえない?声…うーん、どうやってコミュニケーションをとったらいいかな…」というもどかしさはあるんですね。筆談ができる人は良い方なんですけど、中には車いすの方で筆談が満足にできない人もいる。どうやってシャッターチャンスをつかむか・・・それはやっぱり第六感なんですよね。そう言うと怪しまれちゃうので、あんまり使わないようにしているんですけど(笑)

齋藤

『言葉を使わないで会話する』、これは動物や木、石など、目に見えないもの、言葉を使わないもの、言葉がない、自ら語りかけられないもの、それらに対して、応用できると気がついたのです。

理由は分からないけど、ただいるだけでも言葉になると気がついたのです。存在そのものに音楽がある、それはどのものでも当てはまるのです。どんなものでも対等に写真が撮れることに気付いたんです。

それが自信となって、これまでたくさんの写真を撮ってきました。

佐山

先ほど、おっしゃった『まなざしの声』ですが、自分の中でうまく表現できたと思える写真はありますか?

齋藤

いや、すべてですよ。そもそも、失敗作を展示するわけにはいきませんから(笑)

成功したもの・・・いや、うまく会話できたなと思える写真をすべて展示しています。

佐山

これまでのコミュニケーション方法として、手話や筆談は、齋藤さんの中ではしっくり来なかったとのことですが、写真で新しいコミュニケーション方法を開拓していきたいということでしょうか?

齋藤

手話は、自分の言葉とはいえ、まだ胸を張って言えるものではありません。頭の中で納得していないからでしょうか。筆談だとやっぱりズレが生じてしまいますし、実際に人と会って身ぶりで伝えようとしてもやっぱりズレが生じてしまいます。伝え切れなかったともどかしさを感じてしまう瞬間です。

だからといって、いろんな言葉を使っていても伝え切れない、伝え切れないと自分を追いつめて、最終的には傷ついてしまいます。僕はそれが嫌なんです。なぜなら、まだ生きたいから、生き延びて行きたいから。ならば、自分の言葉を作ればいい、むしろその必要があると今まで思っていました。

その結果として残ったのが、ここにある写真です。写真そのものが、僕の言葉になってくれたらと思います。でも、自分の言葉のつもりで撮った写真が、『齋藤陽道、30歳、貧乏。』という次元を超えて、全く別の次元にある世界の写真になっていきました。自分でもビックリしています。

だから、自分が自信を持って僕が撮った写真だと、胸を張って言える写真はこれまでにひとつもありません。写真が自分の写真になればいいんだけど、写真からお前の言葉じゃねよ、と言われる。自分の言葉になる写真を探し求めて、いままでやってきました。

佐山

なるほど。私の個人的な話しになってしまいますが、私はダンスをやっていまして、こないだアメリカへ行ったのですが、まず言葉が通じませんでした。そんな中で、ダンスをしていたら、現地の人もダンスで応じてくれて、ダンスが共通言語になったという経験を持っています。それと似たように写真も同じことが、言えるかもしれないですね。

佐山

次の質問ですが、写真を見るにあたって、こういうイメージを持ったら、もっと楽しめるコツみたいなのはありますか?

齋藤

そもそも、こういう風に見てくださいと強制はしないので、答えられないです。

佐山

それでは、先ほど話にあがった「境界線」に気付く時は、どんなときでしょうか?

齋藤

うーん、例えばですね、佐山くんの障害者手帳には何と書かれていますか?

佐山

感音性難聴の2級です。

齋藤

僕と一緒ですね。僕も感音性難聴の2級です。

まったく聞こえないです。佐山くんもそうですよね?

佐山

はい、そうです。

齋藤

他に視覚障害の中にも、いろいろな種類の障害名があります。他にも何かしらの障害の名前がたくさんあります。これから生きて行く時、いろいろな名前の障害がある人と出会うことがあると思います。その人の障害の名前を聞いた途端、境界線というものが生まれてしまうのです。障害があるその人を見ず、障害名を聞いただけで、その人は『感音性難聴、2級、何デシベル(聴力)、・・・へぇ、そうなんだ』と、肝心の人柄を無視して、その人のことを決めつけるというふうに言葉で判断してしまいます。

言葉ができればできる程、境界線を意識してしまいます。ここにある写真は、見るだけでは分からないように、たとえば車椅子に乗っているからといって、その人は車いすの使用者かといえば、分からないですよね。私の写真は、被写体が障害者の写真が多いとよく言われますが、そうではありません。動物や変なもの、幽霊とかを撮っているのですが、みんなはそれを言葉にしないんですよね。言葉が増え続ける現代は、それに対応するには「沈黙」が必要です。

境界線というのは、言葉そのものですから、生きて行く上で必要なのは仕方がないことですが、なんていうんだろう、そこにチャレンジしたいと気持ちが芽生えているんです。

最終的には、言葉にとらわれている自分がアホらしいと思ってくれればいいかなと。言葉を意識すると、絶対どこかではめられない部分が出てくるはずです。たとえば、この写真を見てください。

(道路の上にダイヤがあるような写真)

これを言葉にしたら、どう表しますか。難しいですよね。私も分かりません。でも、写真なら見てすぐ分かりますよね。それが写真の良い面ですね。言葉にとらわれて、私の作品を見てしまうとつまらないものになってしまうんじゃないかなと思います。

言葉で作られた世界、例えば、地球や宇宙。これも言葉だけですよね。(地球や宇宙を)本当に見たか?と問われると、(普通は)ないですよね。実際、地球を見るには、ロケットに乗って宇宙から見るしかありません。

齋藤

つまり、言葉で作られた世界は、本当の世界ではなく、英語で言えばワールド。そのワールドは、世界とは別にもう一つの世界があります。

もっと具体的に言えば、木、風、人、動物、気持ちなど、存在するものを言葉に代えたものです。存在を認めるというのは、専門用語で言うとコスモスと言います。コスモスとワールドは全然別物になります。コスモスの手話表現がうまく表現できないので、その手話を知りたいですね。

自分のイメージに表すとこんな感じです。(手をヒラヒラさせながら、両手を無造作に動かす)

私は、いつもワールドではなくコスモスのほうをうまく表せたらと思っています。

佐山

ここから質疑応答タイムです。

質問

コスモスを意識しながら、写真を撮りたいと思った理由やきっかけは何ですか?

齋藤

境界線、いわゆる言葉ですね。ここも境界線、あれも境界線、また境界線、またまた境界線と延々と意識していたら、最終的には自分を追いやられて、身動きできなくなってしまいます。これでは、いつまでもいられないし、死んでしまいます。息苦しい、死んでしまう、ヤバいと本能的に感知したとき、境界線とは単なる言葉なのでは?と気付き、一歩踏み出すとなんだ、動けるじゃんと次々と踏み出せるようになったのです。

境界線は壁ではなく、ただの言葉です。境界線は、自分の頭が勝手に作られた言葉です。それに気付くと気楽に動けるようになりました。のちのち、それらについて、ワールドとは別にあるはずだと考え詰めた結果、コスモスの存在に気付いたのです。

質問

写真の中にいろいろな子供の笑顔があるのですが、実際に写真を撮る時、どういう伝え方をしているのでしょうか?つまり、撮る時のコミュニケーション方法を知りたいです。

齋藤

私は言葉を使って接することはまったく意識していません。子供と会ったら、やぁ!と挨拶するだけです。本当に言葉を使うことはありません。言葉は無駄・・・じゃなくて、役に立たないと分かっている上で、撮影を進めています。コミュニケーションではなく、もうすでにお互いのことを分かっている同士だと思うのです。その方が、時間も節約できます(笑)

子供の撮影は本当に良い写真がたくさん撮れます。子供は人生の師匠だと思って、いつも子供を相手に頭を下げながら、撮影しています(笑)

質問

作品を見ていると、自分の好きなものを撮っているのかなと思うのですが、苦手なものを撮るとなると、さきほどお話しいただいた境界線と矛盾していまいそうな気もしますが、そのあたりはどうなのでしょうか?

齋藤

そもそも、私は人と接するのが苦手です。人と会うときは、嫌だなとか面倒くさいなとか憂鬱な気持ちになってしまいます。やっぱり、「嫌だ」、「面倒」は単なる言葉です。実際会って、言葉を振り払い、被写体からのまなざしの声を聞きたいなという気持ちが勝ってしまいます。

佐山

お話をありがとうございました。


佐山

実際にインタビューをして、写真に対する気持ちがジンジン痛くなるくらい伝わって来ました。でも、その痛みは不快な痛みではなく心地よい痛みです。

彼の目を見てると思わず吸い込まれてしまう、不思議な人です。

彼の生い立ちから、生きる証を示すその手段は「写真」

まなざしの声、言葉や手話ではなく、写真を言語化する彼なら、生きてる間に成し遂げるのでははないかと思いました。

インタビュアー: しかく 佐山信二